雪早し抱かれて来る菜の一把      丸山美沙夫

  • 2008/05/30(金) 01:29:17



雪早し抱かれて来る菜の一把      丸山美沙夫
                     「俳句人」二月号〈燃えたつ目〉より


 場面としては、農婦が自家用のために冬菜を一把運んでくるところか、または、街角で主婦が冬菜を一把買って帰る途上の風景か。

 いずれにせよ、抱いてみた冬菜の冷たさ、みずみずしさに、雪の予感を嗅いだのである。

 寒々とした中にもきりりとした清冽な空気、その下に生きる人々の生活が、十七文字の中に簡潔に表現されて無駄がない。

 本作品〈燃え立つ目〉は二十句からなり、「俳句人」らしく現代の社会事象を積極的に取り入れて味わいがあるが、掲句はその緊張感はそのままに、正統派の俳句としても一際目を引いた。
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ざらざらの子どものからだ寒九の湯    宮坂静生

  • 2008/05/26(月) 00:11:10



ざらざらの子どものからだ寒九の湯    宮坂静生
                          「岳」二月号〈寒九〉より

 自分の子どもと自宅の風呂に入り、洗ってあげたのであろうか、それとも、銭湯で元気よく湯舟に入ってくる子どものからだをつくづく眺めたのであろうか。

 そのからだは驚くほど「ざらざら」していたのである。

 寒風をものともせずに外を遊んできた子どもの素肌は痛々しいほど乾燥しているが、それはむしろ子どもらしい健全さの証でもある。

 掲句は、そんな子どものからだのざらざら感のみを表現、後は何も言わずに「寒九の湯」と取り合わせ、ぴたりと決めて見せた。

 からだに良いとされる「寒九の水」から連想される「寒九の湯」の表現も、新しい発見である。

 「からだ感覚」を生かした作句を提唱する作者の会心の作と言える。

落葉して地に明るさを移したる     日比野里江

  • 2008/05/21(水) 07:30:04



  落葉して地に明るさを移したる     日比野里江
                           「耕」二月号〈落葉〉より


 木々いっぱいの紅葉や黄葉。

 冬を迎える樹木は、あるときいっせいに枝を揺らしてこれらの葉を地面に振り落とす。

 青空をコントラストに見上げる位置にあった錦絵がそのまま地上へと舞い降りるのだ。

 天空の華やかな世界が足下に見下ろす形となり、皆が雲上にいるような心持になる、とたとえるのは言い過ぎだろうか。

 落葉には寂しいイメージがあり、俳句もその線に沿って詠まれるのが通常であるが、この句はそれを逆手に取るかのように、落葉の華やいだ側面をさりげなく表現し、皆を納得させるだけの力を持つ。

 作者の長年の修錬がなせる技であろう。

くらがりの奥のくらやみ神の留守      山崎聰

  • 2008/05/19(月) 07:14:46



くらがりの奥のくらやみ神の留守      山崎聰
                         「響焔」二月号〈耿々〉より


 万物に神がいる、という考え方が日本人の精神の骨格を形作っているが、そんな八百万の神々が出雲に集まり、諸方の神社を留守にするのが「神の留守」である。

 この「神の留守」の間に何が起き、また、何をするのか、そんな精神のゆらぎがこの季語を人口に膾炙させたと言える。

 神の不在という「くらがり」にある「くらやみ」とは、生きることへの虚無感なのか、それとも人間にまとわりつく罪業の深さなのか。

 句作によって精神の有様を追求する山崎氏らしい作品である。

遠道が近道になる穴惑ひ        星川木葛子

  • 2008/05/15(木) 22:31:44



  遠道が近道になる穴惑ひ        星川木葛子
                       「寒雷」二月号〈暖響鏘鏘〉より


 人生は選択肢の連続である。

 分かれ道は無数にあり、一本の道を選んだ途端に、他の道は消滅する。

 後戻りのできない航海であるが、どれが「近道」であり、どれが「遠道」であるかは誰にもわからない。

 「穴惑ひ」はそんな人間の姿そのものとも言える。

 「遠道」が実は「近道」であったと思える人生は幸いである。

 「遠道」も「近道」も所詮は人間の主観のなせる業と達観できる人は、ようやく「穴惑ひ」のレベルを脱したと言えるのであろう。